2013年3月31日日曜日

[映画]ザ・マスター

2013年3月30日レイトショーで見てきました。
初PTA作品。
ネタバレあります。






太平洋戦争から帰って来た水兵が定職をトラブルで逃げ出し彷徨いついた先は、ある指導者、The Masterその人だった。

アルコール中毒の物語
ともかくアルコールの匂いが蔓延する映画。

冒頭はヤシの実を裂いてはアルコールが入っていると思しき缶の中身を入れては飲む、飲む、飲む。

日本降伏後の調印式のラジオ放送が流れる。主人公たちは乗り組んでいる輸送船内の倉庫のハッチを開いて乱入して積載品の魚雷を分解。何をするかと思ったら魚雷内のタンクから液体燃料を排出させて缶で受け止めるというシーンが。主人公は直接少し飲むシーンがあって水にしか見えず不思議に。
後で気になって調べたところ、アメリカ海軍の魚雷はメタノール燃料を使うものと電気駆動のものがあって、おそらくは前者のメタノール燃料を取り出していたところであろうと推定。(ちなみにアメリカ海軍は艦上では禁酒が伝統ですので普通にしていたら飲めないのでありえる展開)

復員した主人公はデパートの記念写真カメラマンに。最初は真面目に50's調の明るいアメリカのカップル、子供たちといったよく見る写真を撮っていた訳ですが、暗室では相変わらず謎の液体を作って飲む、飲む、飲む。
そしてやりたい放題の挙げ句トラブルを起こして逃亡。

サリナスの野菜畑の収穫作業員になった主人公。仕事を終えてみんなで飲む謎の液体調合に勤しむ主人公はメキシコ系の老人にしこたま飲ませてしまい、毒を飲ませたと言われて逃亡。魚雷の燃料の事を考えれば「毒」(メチルアルコール)を飲ませていた訳でここでも似たような調合をしていたのか。
広い畑を主人公を先頭に一列に乱れ走るシーンは他でも似たような形で出て来る。このシーンのシメントリックさは美しい。

主人公はカクテルパーティーを行っている小型船に密航。ふと気付くと船の寝台ベットで寝ていて、遂に船の「船長」(Commanderと言っていたと記憶)に引き合わされて、持っていた謎の液体を試しに飲んだら美味かったから作ってくれといわれる。
船のシーンでは洗面台の液体シロップ(アルコールが入った薬、でしょうね)らしきものが入った瓶を飲み干して水を入れて戻したりする訳ですがどれだけアルコール中毒なのかと唖然。
更にマスターに頼まれた謎の液体調合に際して医薬品箱を持って機関室に籠り、どうみても飲んだら体に悪そうなものを入れるあたりが、主人公のアルコール中毒の特殊性は明快に描き出されている。

俳優の演技力
フレディ・クイェル(Freddie Quell)を演じるのはホアキン・フェニックス。何を考えているのか分からない底の知れないキャラクターを見事に表現。独特の肩をせばめたような立ち振る舞いはどこからみてもフレディと分かるもの。それでいて彼にとってそれが当たり前のように見える演技は良かった。
ちなみにフレディの姓であるQuellは抑えるといった意味があるらしい。意味深。

謎の教祖(モデルはある作家が産み出したもの)ランカスター・ドッドを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンはその部分だけ切り取っても映画が成立しうる存在感あるものだった。
エイミー・アダムス扮する妻は洗面所のシーンなど鬼気迫るものがあり「宗教」の面はドッド夫妻の存在感が大きかったなと思う次第。

「コーズ」教団の描き方
この映画についてTwitterを検索してみるとサイエントロジーとの関係について指摘する方がありました。Wikipediaに歴史的経緯や手法が出ていますが、確かにそっくりでモデルにされたのは明らか。それだけでも成り立った映画だと思いますが、主人公を別に置いた事で全く違う視点からの映画になっている。

新興宗教を題材にした映画、しかもモデルあり、というものを描けるか。相手がメディアで否定的に取り上げられる事を否定的で攻撃的な防御まで仕掛けてくるような宗教は取り上げる価値がある一方で上映妨害など想定せざるを得ず、掘り下げにくい。
またそのような事をしない宗教の場合、映画の題材として取り上げる必然性は、おそらくない。
本作の場合フレディとランカスター・ドッドの関係性にクローズアップしていて、新興宗教の面は客観的にしか描いていない。ただその中でその宗教が持つ奇妙な世界観、陰謀論的な物の見方が「コーズ」の一族の会話で出てきたり、それこそフレディがトマス・ベケットの首を取って来た忠臣よろしく先回りしてやってしまうといった描写を入れている。
結構微妙なバランスの上に作品は成り立っている。

一本道の物語が五里霧中に変貌
本作、最初は一本道で単調に見える(但し台詞説明はないので知っていなければ調べないとわからない事多し)のですが、途中から眩惑させられて道に迷い込んだような感じに陥る。
これは本作の視点があくまで主人公にあって、マスターとその一族側からの視点描写が限られている事が要因。
話自体はフレディの過去を描くパート、マスターとの出会いと教団化への道程、マスターとの別れと最後の出会いとエピローグに別れる。これらがほぼ主人公視点で描かれるため、映画世界で実際に起きた事なのかが分からない。例えば映画館で一人映画を見ていて電話機が持ち込まれて電話に出る羽目になるというシーンは現実に起き得るのか?と考えると大変幻想的といわざるを得ない。あのシーンはまるで「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を連想させられる展開。
砂漠から英国までのシーンは幻想的な語り口になっていて映画世界で起きた事なのか、それともフレディが想像した事なのか。このいずれなのかが今ひとつ確信が持てない。

お口直し
あの最後のシーンは映画の後味の悪さを打ち消す効果はあった。あのシーンでそういう効果を体験出来るというのも珍しく、本作の特異さを象徴。
万人にお勧め出来る内容ではありませんが、モデルとなった組織や人物について調べてみるのは面白いと思う。