2013年7月20日土曜日

[映画] 風立ちぬ

2013年7月20日(土)岐阜県のとあるシネコンで見ました。車でないと行きにくい場所だったせいか、ほどほどの入り。
8月24日(土)22:55からのレイトショーで同じシネコンで2回目。もう1ヶ月経過しているにも関わらず意外に入っていました。

ネタバレあります。





















謎のポストカード
入場するとポストカードサイズの折り畳まれた紙を渡される。内側で糊付けされていて「映画を見た後で読んで下さい」といった意の事が書かれていたので、見た後で開いたら鈴木プロデューサーが感想をKDDIに送って欲しい(KDDIからジブリに渡す)との事が書いてあっただけで大変拍子抜け。これ、見た後で読んで欲しいと書くほどの事ですかね。
映画は確かにこれまでにない内容であり、監督が映画だけではなく言葉で伝えたい事があったのかと勘違いさせられて大変不快。ただ映画という表現を以て語れない監督というのはどうかと思うので、そういった事ではなかったのは良かったとも言えます。

正面からしか聞こえない音響による映画体験の是非
噂の音響はなんと正面からしか音が聞こえて来ない。別にヒューマンビートボックス方式だろうが何だろうがいいんですが、正面からしか音が聞こえてこないというのは、映画体験としては最悪ではないでしょうか。
逆にテレビ放送される場合は、単なるステレオスピーカーでも良い感じで聞こえそうな気がします。
音が奢り過ぎているという認識をインタビュー等で語られていたと思いますが、では何故映画館で映画を見るのかというのは単に大きなスクリーンだからという訳ではない事は考えて頂きたいと思った次第。

物語構造:戦前の昭和を生きた人々はその時どう感じていたのか
本作の構造は航空機設計者としての堀越二郎から仕事に対する感情的な側面を削ぎ落して純粋に優れた航空機を作りたい、ただその一念の人として描写しています。
そしてもう一つの要素が恋愛。これは堀辰雄の小説「風立ちぬ」をモチーフに菜穂子との物語を描くという構造。
関東大震災での出会いのシーン。帝国大学の航空学科の学生になっていた二郎と菜穂子が東京に向かう列車での出会いと震災との遭遇。

ここまではいいのですが、この後のドイツ派遣の話からしばらく話が面白くない。
というのもその先に話が繋がらない。エピソードがぶつ切りで流されるだけで、堀越技師がどうやって零戦に繋がる発想をしていくのかといった話は出てきません。そして途中挟み込まれるのは暗い未来の展望。
大正末期から昭和初期にかけては暗く辛い時代、生きて行くだけで大変な時代という時代観が背景にあるのだと思いますが、本当にそれだけなのか。またそこまで時代に対して見通しを持てるのか。
中島京子「小さいおうち」はこの点について取り組んだ小説ですが、この小説を読んだ後だと昭和が単に暗い時代というのはどうもステレオタイプ過ぎて安直に見えます。
※これは両親が受けた影響の反映であるらしい。この事は「腰抜け愛国談義」に出てます。

話が面白くなるのは軽井沢での菜穂子との再びの出会いから。恋愛ものとしては中々面白い。ある方が「宮崎監督なのにとある要素がない」と書かれていましたが、ダイレクトな描写こそ避けていますが、大人向けの演出も入ったりと宮崎駿監督作でこのような物語を見られるとは。この点は素直に脱帽。問題はこのパートに辿り着くのに結構な時間が掛かる点でしょうか。

菜穂子の決断(2回目を見て)
菜穂子は初見時あまり意思選択していない人に見えたのですが2回目だと、菜穂子が二郎を呼び寄せた面がある事が分かります。
(1)震災から二年後、大学に計算尺など届けた。これは女中さんと菜穂子の意思に依るものらしいのは、あとで「私たちの王子様」という台詞で分かる。
(2)軽井沢での二郎との再会で一目で気付く。父親がいないところで話をする為に泉の入り口に画材を置いて泉の前に来た二郎に名乗り出る……完全な待ち伏せ奇襲。(このシーンは木漏れ日の揺れる光が空気中の埃に反射してキラキラと光る演出が入っていた。このシーンを密やかに彩る細かい演出。アニメ制作にコンピュータが活用されるようになった事で可能になったものだと思う)
(3)二郎の結婚申し込みを受けて即座に父親へ婚約の了承を求めた。その際に病が癒えるまで待って欲しいと二郎に伝えて応諾させた。
(4)容態悪化に対して治したいからと菜穂子自身がサナトリウムへの入院を決めた。
(5)容態の回復が期待出来ないと感じたのか菜穂子は自身の意思で病院を抜け出し、父親に連絡を取って病院からの退院と名古屋行きを認めさせた。
(6)新婚の夜。(以下略)
(7)九式試単座戦闘機の飛行試験に向かった二郎。その機会を選んで再度入院。黒川の奥さんは「きれいな姿を記憶に残したかったのよ」
これは終戦後に二郎が見た夢で実現された。

世界に冠たる零戦の実態を間接的に描写
本作では戦闘シーンは描かれません。ただ航空機が戦争と密接に結びついている事は作中で繰り返し語られ、堀越技師が主任技師として手掛ける航空機はどれも陸海軍の要求仕様に基づいて設計されたものである事が示されます。
機体設計についてはいくつかエピソードが語られますが、エンジンについてはすぐ壊れる非力なエンジンしかないという事がオイルブローするエンジン、離着艦中に壊れるエンジンといったシーンで明示されます。
本作中で堀越技師が設計する機材は96式艦上戦闘機の原型機である九式試単座戦闘機の1号機(本機のみ逆ガル主翼を採用)まで。
その次にあった零式艦上戦闘機まで描いていたら、中国戦線、そして太平洋戦争緒戦での圧倒的な強さとそれに対する堀越技師の感情に話が踏み込まざるを得なくなる事を回避したのかなというのは憶測が過ぎるかも知れません。
なお零式艦上戦闘機については九式試単座戦闘機の開発を前に行っていた自主的勉強会で堀越技師がアイデアを披露したシーンを描写した上で、映画の最後に堀越技師の夢の中の世界で編隊を組んで上昇して行く儚くも美しい映像(「紅の豚」でも見られる描写と共通)で終えています。

零式艦上戦闘機の兵器としての側面を描かずに太平洋戦争の結末がどうなったかを描いたという点は巧み。ただその分、観客の想像力が試される作品にもなったと言えます。
戦闘シーンを排除した物語構造は浅田次郎「終わらざる夏」で試みられています。終戦後、占守島でソ連軍と戦った日本戦車部隊とそこへ召集されて配属された人が何故そこに到ったのか。戦闘シーンを廃して描いて見せています。
戦争は残虐で悲惨なものだという事を示すのにいい方法とは思えません。この点は本作についても同様に感じています。

宮崎駿監督の見立て、フォン・ブラウン博士でも成り立ちます。宇宙旅行をしたいというフォン・ブラウン博士はロケット開発手段としてV2計画に関わる事になる。単にロケットを作りたかったという観点で見れば、戦闘機は美しい飛行機なのだとする宮崎駿監督の見立てと同じです。自ら道を切り開くという観点ではフォン・ブラウン博士の方が良かったかもしれません。

余談
ユンカースのパート。ドイツと日本の関係はさほど良かった訳ではないという認識は必要です。日中戦争ではドイツが中国側に武器供与していたりしますし。
ドイツのユンカース工場の対応が無礼に近いのはわりと史実じゃないかなと思った次第。

余談2
九式試単座戦闘機の要求仕様説明会合?での海軍士官たち。口々に何かを言い立てる中、堀越技師は一言返して終了。上司の黒川は「おまえ、話聞いていないだろ」「はい」
海軍戦闘機パイロットが新型戦闘機を評価する時はだいたい「前の戦闘機は小回りが効いていた。なのにこれは」の繰り言しか言わない傾向があった訳ですが、そのバカさ加減が風刺されていてニヤリ。

余談3
夢の世界の最後のシーン。絵コンテ集を見ると菜穂子の台詞が「きて」→「いきて」に変更。「きて」だと生き切った二郎でなければならない。戦後生き抜く覚悟を決めさせるために一文字加えて「いきて」とする事で昭和20年8月15日以後の二郎の生き方を決めてみせたように見えました。