2014年6月16日月曜日

[映画]野のなななのか

チケットを買うのに「スクリーン○番の方で」「大林監督の方で」という声が聞こえて来るところから、本作はスタートしているかもしれない。ちなみに私は「大林監督の方で」でした(笑)

ネタバレも若干ありますのでご了承下さい。






冒頭、祖父とカンナの会話からいきなりこの映画内現実と異界の境界線上に立たされた事に気付かされる。本作で多用される会話しているようでしていないズレ、このシーンで何が起きたか想像する事になる。この時点でがっつり監督の世界に連れ込まれる。

短いカットがどんどん積み重なるのに会話は途切れない(というか会話にならず一方的に話しているシーンも多い)という構成、見ていて違和感があるのに違和感がない。映画内世界では当たり前の事として受け入れてしまう。
大林監督のリアリティラインは大変異質。そもそも映画の「現在」の時間軸は52日間となるはずなのですが、かさねが自転車で走り回るシーンなどでは夏としか思えない所もあったりする。

あと画面合成の多用も面白い。パンフレットを見るとグリーンバックでの撮影シーンの写真が掲載されていますが、普通に撮影出来そうなシーンも合成で処理している。
VFXの使用は通常、通常の撮影では再現しにくいシーンを違和感なく再現する為の手法として活用される事が多かった訳ですが、本作の場合はグリーンバックによる合成により異界を生み出す効果を引き出している所が新鮮。こんな活用方法は初めて見た。

最近見た映画で下手な楽隊が出て来るものがあったのですが、本作の場合は上手い。そして映画世界には存在しないものなのに画面にはどんどん出て来る。やはりこれも異界の一つなのか。

出演者たちも素晴らしい。存在感が有るのにない光男役の品川徹。16歳から40歳?まで演じた謎の女性信子を演じた常磐貴子。儚げな16歳の少女役の安達祐実(実年齢思わず確認してしまった)現代の子らしい元気さを演じたかさね役の山崎紘菜。そして物語の視点を与えたカンナ役の寺島咲。

本作を通じて感じるのは演劇的な映画だという事。登場人物は観客にしか見えない楽隊、生きている時から観客にしか語る事がない光男、そもそも映画内世界に存在するはずのない信子、死んでいるのか生きているのか掴ませてくれない大野。これらが「現代」の世界にも出て来てなおかつリアリティラインが崩壊しないという世界感が成立するというのは、スクリーンの上に複数のレイヤー(世界)が存在していて、それを全て見る事が出来るのは観客だけという仕組みによるものだと思う。
普通の映画だとこういう世界は切り離されて乏しい接点を元に語られる。そうではなく1つのスクリーンで見せる事で「異界」と「現在」を重ね合わせて一つの物語として見せる事で、1945年8月と「現在」をつなぐ事に成功している。

本作は3時間近い長編です。独特な演出をされていて人によっては受け付けないかもしれない。また作中語られる「現在」起きている事象に対する登場人物たちの語りを何らかの主張だと思って気に入らない人もいるかも知れない。
でも映画とは表現物であり、意見や思想の表明でもある訳でその事をストレートに突きつけているだけの事じゃないか。反対意見があればそれはそれで言えば良い。意思の表現と対話がなくては何も始まらないと思う。そういう意味での一石じゃないでしょうか。

カンナの祖父光男仕込みのコーヒーを入れるシーン。母が亡くなった時、しばしば残された身内のためにコーヒーを淹れた事を思い出した。
母がコーヒー好きだったし、家族もまたそうだから。また母の墓前にコーヒーを淹れて持って行こうと思う。



追記I:2回目を見て
何が起きるか知ってみると基本となるストーリーが存在していて分かりやすく語られている事が分かる。
光男に対しては怒りをおぼえていた訳なのですが、彼自身その事はくやんでいたし、綾乃がその事を恨んでいない。あの状況でああいう事をやるのか?というのは懐疑的ですが、光男が語り、綾乃が触れない所で察するべき事だと思った。

本作では亡くなった/危篤の人、生きている人、その境界線上の存在に分けられるのですが、初七日と四十九日に来ていた大野國朗はいずれでもなく「生霊」にしか見えない。
彼の言動は生者のもの。でも光男の家族たちとは会話がない。
そしてソ連、そしてロシアに残って妻と連れ子と暮らしたという話を思うと生きているようにしか見えない。その存在が一番不定なのですが、光男の物語を語る上でキーパースンであり、既に亡くなった人でも生霊でも見る側の選択に任されているという不思議な存在でした。(追記:3回目見て義理の息子が未来に来ているという台詞で既にこの世の人ではないと思うようになりました。)

本作の視点。スクリーン上には複数のレイヤー(世界)があって全てを見る事が出来るのは観客だと当初書いたのですが、これは不正確だった。あと亡くなった/危篤の人(光男)とその境界線上の人は全てを知って物語る事が出来る立場にあった。
そして全てを知る事はないんだという諦観は、映画最後の生きている人から見た視点を担っていたカンナの独白で分かる。光男と信子の時計が動き、そして一人星降る里文化堂に残ったカンナの独白で世界は未来へ進み始める。
この世界で語られた戦争や原発の問題はすぐなくなる事はないでしょう。その中で最後に示されたのは未来への希望なのだと思う。


追記II:理想主義者と現実主義者は両方必要だ
本作の感想を読んでいると監督のイデオロギーが入っていて、という批判を見かけます。
まず監督が本作に織り込んだ理想、戦争と原子力に対する考え方が理想論として間違えているのか、といえばそのような事はないと信じます。
現実主義者はしばしば「非現実的」と批判しますが、ではあなた方に理想像の認識を持っているのでしょうか。
本作では科学に対する歯止めについて語られるシーンがあります。現実主義は、現状を肯定する面を持っていて歯止めがありません。理想主義はその歯止めになり得るものです。
この世が全員が全員、現実主義者でこれぐらいでいい、これ以上の事は仕方がないとなったらどうなるのか。それに対するカウンターとして理想主義は尊重した上で議論を尽くす必要はあると思います。