2017年4月14日金曜日

戦前のお産の歴史 産婆から助産師・産科医へ

「この世界の片隅に」で主人公が妊娠しているかもと騒動が起きる展開がある。この部分について片渕監督、松原作画監督と考証協力されていた前野さんが上映後のトークセッションで話をされていて気になったので少し調べてみた。



1. 産婆の時代

明治期から太平洋戦争までの出産は産婆が仕切るようになっていた。この産婆も明治当初は新旧世代が存在しており奈良県では地域を新産婆が徐々に仕切るようになっていった。新産婆は「白木助産婦学」を丸覚えして資格を取って先輩助産婦について出産を取り扱う事で仕事を学んでいったという。

2.妊産婦手帳の登場(昭和17年)

昭和17年妊産婦手帳が制度化された。これはのちの母子手帳の源流となっている。(戦後、母子手帳と名称が改められたのは「妊産婦」では子どもを対象にしていないように受け取れるので改めたらしい)
 妊娠が分かった時点で医師、産婆の診断により証明書が発行されて地方長官に届け出をする義務が課せられた。制度上は配給加配が措置される事になっていたが現実には物資不足からきちんと機能したとは言い難い。
 なお大日本産婆会が組織されており東京からの妊婦の疎開の実現など奔走していた。

妊娠届のための診断

妊娠の診断は産科医、産婆が行うものとされていた。「白木助産婦学」を読むと問診、触診など方法が述べられているが今日的な診断薬はまだ出て来ていなかった。誤診すれば配給などの優遇措置を受ける事が詐欺行為になりかねない。当時の滞りがちな食糧供給事情(海上輸送路への米潜水艦攻撃の激化で配給が所定カロリーを満たせなかった事も多発)から栄養失調による無月経症になった女性も多かったと言われているので問診段階でそちらの疑いを持つとすぐ診断をする事はなかったのではないか。

3.戦後 産婆から助産師へ GHQによる改革

戦後、GHQの介入で大日本産婆会は解散となり名称も助産師へ変更された。
アメリカでは産婆、助産師に相当する概念がなく産科医が扱うようになっていた。その方が母子の保護に有効だろうと見なしており日本でも同様の制度へと誘導した。

 日本の出産は太平洋戦争中まで8割超が産婆の手による出産だった。戦後の改革で産科医への移行が始まりほどなく逆転していく。産科医による高度医療は母子とも生存率を高めておりその効果は否定出来ない。日本社会がそれだけの体制を支えられるようになったという証でもある。

4.「この世界の片隅に」昭和19年の事情

原作だと周作とのデートで妊娠の可能性に気付く所で前編が終わり、次号後編で病院→朝日町のリンさんに会いに行った際の話や欄外の注釈から妊娠ではなく栄養失調による無月経症だった事が分かる。考証の話はおそらくこの前編、後編が1日の出来事だとしてそんなに早く答えが出るものなのか?という所で妊娠診断薬があったりしたのかという事を調べられたらしい(ただし原作を読むと前編、後編で少し日が開いていてもおかしくないように見える)。
 当時の助産師バイブル「白木助産婦学」でも出てないし、開発されていた手法については前野さんから話がありましたが実用には程遠いもので、またそのようなものがあったとして目的は夫婦の営みがある新妻を対象とするようなものじゃなかったのではないかと言われていたしその点は同感。原作者に聞かないとはっきりした事は分かりそうにない。

追記:原作、映画とも産婆さんから医師に診断を受ける様に言われているので妊娠よりも無月経症を疑われたように見えます。

5.参考資料

書籍・論文

Web