2017年7月16日日曜日

アニメーション長編映画と実写映画は同じ土俵で比較できるか?

 ある映画関係雑誌の座談会文字起こし記事で痛烈にアニメーション映画を嫌っている実写系作品の監督・脚本家の意見を見た。観客が見る目がないという話をある映画祭で書かれて、それがネットに引用されて批判を受けたという流れでした。

 私はあれを良い意味での挑発なんじゃないかと思うようになっていたのですが、どうやら座談会での攻撃の仕方を見ると下手に製作関係者を批判すると面倒だから観客の見る目のなさのせいにしているようにしか思われた。つまり表裏もへったくりもなく本気だった訳です。本当に観客の見る目がなくなったのか。それとも別に原因があるのか。少し考えてみた。



「君の名は。」「夜明け告げるルーのうた」のロケハン・考証とリアリティ

実写は予算に制約される。また当時の背丈、顔つきの再現は困難。写真を見れば明らかですが、その時代の栄養状態など絡んでいて慎重や顔つきが変わってしまうのは避けられない。

 アニメは描けばいいから(なんでも出来るし楽だろ)と受け取れるような批判を実写畑の人が批判していたが、アニメーションは描けば作り込める分どこまで描くか決める必要がある。実写なら風景に1円玉を出す必要がある場合、本物を置いておけばいい。アニメーション映画でそれは必要のない過剰描写になりかねない事がある。
 コントロールできる範囲が違う。デフォルメしたりピンが合わないようにするにしても考慮なしに決められない。だからアニメで描くことは実写よりハードルが高くなる部分が生まれる。何もかも決めてコントロールしなければならない。ロケ地がこうだからと合わせていくような真似がしにくい。調べて再現することは底なし沼。これは実写もアニメーションも変わらない事実でしょう。
ただ実写なら出来ない事も出来るアニメの方が求められるものは大きくなる事はあり得る。あとアニメーションではそのまま描いてないという発言はよく見かける。遠近法などきっちり合わせて描くとそれらしく見えない事がある。そういう観客にどう見えるかという計算も入ってきている。これは実写でやっている例はそんなにないと思う。(書き割りを起こしてセーヌ川河畔を再現したフランス映画はこの意識が入っているかも知れない)

「夜明け告げるルーのうた」もよく見れば分かりますがロケハンや取材の結果をデフォルメした絵として落とし込んで描いている。実在しない町を作るにあたってモデルを参考にしたものが多く入っている。

「君の名は。」はロケハン結果をより反映させていて特定のモデルの再現が多い。ロケ地観光が実写作品よりも多いのは何故なのかと言えば、光景の選択センスと下手すると現実より美しい光景にしてしまう背景画美術センスからだろう。

「君の名は。」は撮影視点自体は実写作品に近い。この作品がアニメでなければならない理由は美術と光線コントロールの他に、糸守というセットで作るのが困難な特異で変化する地形と町並みにある。実写作品にしたらよほど予算をつぎ込まないとチープなものにしかならない。糸守の光景はCGI、オールブルーバックでなら出来るかもしれない。ただここまでくるとアニメの方が向いている作品だという事も明らか。作り手側にアニメーション映画としての必然性の意識は確実にある。

「この世界の片隅に」のリアリティ

「この世界の片隅に」はどうか。何故観客は本作にリアリティを感じているのか。この作品、観客年齢は老若男女関係していない。高齢者の方にも受け入れられている。
そして幼少期、あの時代にそんな光景をみたんだというような感想を漏らされる方もいらっしゃる。この事をどう考えればいいのか。
 私自身、呉や広島の舞台となった場所に行ってみて時間のつながりを感じた。また中島本町の写真を見て、映画ではどこで出てきた光景か分かり皮膚感覚で当時あった町並みを体感する事が出来た。観客が感じているリアリティについて理解せずに批判とはいったいどういうつもりなのかと不思議でならない。

加害者としての描写問題

戦争の加害者性について描いてないとも批判されていたが、作中には確実にその意識もある。最後の最後、姪とみぎてを奪われた主人公の敗戦の日の慟哭は戦争に与した事への自身への怒り。それはB-29のビラから生活を戦いだと夫に言った主人公がその次の玉音放送のシーンでもうその事が突きつけられている。

 太平洋戦争の戦時中の受容については私も興味があり当時の日記で書籍化されているものを何冊か読んでいるが温度差は大きい。半藤一利氏のように学校に上がっていた世代だと開戦の日=みんな喜んでいたという認識をされている。一方でまだ幼児だったという保阪正康氏は調べてみてそうでもなかったという事を書かれている。
 太平洋戦争は昭和の日本の最初の戦争ではない。日中戦争が始まって数年経過していた。勝ったと思ったらそうではなくダラダラと戦争は続き期待していた賠償も得られなかった。そして仏領インドシナ進駐などの外交上の失策でアメリカと手切れになりそうになって戦争しない勇気よりも先を考えない戦争する蛮勇を選んだ。そんな中で奇跡的に緒戦期の奇襲で大勝利を収めたから祝勝気分になっただけでしょう。
 首相は重臣が事実上決めている状態(天皇が任命)、普通選挙法は男性のみ。国民の総体として戦争を選んだという事実はあるのは確かですが、個々の個人が戦争に与したかどうかは、記録を残している人は客観的に検証できると思いますが、市井の国民がどうだったかは本人にしか分からない事だと思う。

 なので戦争への荷担、加害者かどうかという判断は極めて難しい。本作の場合は内地では需要を満たすだけの生産が出来なかった米や大豆がどこから来たのかという主人公自身が考えれば理解できるところから明言はしないものの植民地の支配構造の問題に行き着く事を示している。このあたりは背景を調べていかないと腑に落ちにくい所ではあるが、調べると米の生産では朝鮮半島、台湾のジャポニカ米作付けは大変重要で朝鮮半島での干魃で内地が米不足になったなんて事も記録として残っている。どこで米が作られているかぐらいはこの時の騒動(タイなどから緊急輸入もやっている)を知っていれば(知らずに済ませられない問題だったと思いますが)主人公の認識は分かるし、何故あの日まで考えなかったのかとすら本人が思ったであろう事も分かる。

 批判している人はここまで調べてなお戦争の加害者性を描いてないと思ったのだろうか。そもそも戦争の加害者性について個人について当てはめようとするのが安易過ぎて信じがたい。

最後に

 先日、30年前の傑作アニメーション映画を観ましたが、当時のセル手描きアニメーションとしての美しさの一方で解像感の低さなど技術の違いも痛感。今だとPCを利用した作画も併用されるようになり解像度もHD基準に変わっている。アニメーターの低賃金問題は変わらずですが、「夜明け告げるルーのうた」のサイエンス・サルのように残業なし少数精鋭型の製作も出てきていて大きく変わっている。

 映画のヘビーな観客の人達はアニメーション映画も実写映画も観てます。(批判もしたりと色々ですが観ないで批判している人は少ないと思う)
もう映画館客側にアニメーション映画も実写も関係ないのですよ。自分にとっていい作品かどうかが全て。良ければ複数回観るし、謎を掘り下げたりしたくなると更に観る。そんな人も多い。
 「君の名は。」は私の観測できる範囲では嫌う人も多かったですが観て批判はされている。(私は表向きのストーリーを成り立たせた上で水面下で何かやっているあたりや、主人公の普通さは高く評価)
ヘビーな観客も観ないとあんな数字にはならないと思うのですけどね。(初動での中高生の影響はありましたが彼らの姿は10月あたりでは目立たなくなってましたし、1年近く続いた上映の後半は年齢層は高めになっていた)

 座談会での観客が普段見に来ない層の動員じゃないかという読みが目立ち、どうも素直に数字を観てない感じはしました。(統計的には年間数回以上観る層が過半数を占めているのでこの層が観なきゃ映画のヒットは考えにくい)

 アニメーション映画か実写かみたいな見方がそもそも現状にそぐわなくなっているし、「この世界の片隅に」「君の名は。」は一般観客主体で動員されている作品なので、そういう切り口でみる事自体が誤りですね。実写作品と同じ土俵で観られている作品だという事実は認識されるべきだろうと思います。