2017年11月18日土曜日

「氷菓」実写版とアニメ版・原作の大きな違い

 原作は2000年の米澤穂信氏のデビュー作だった。ライトノベルレーベルから当初出たが現在は角川文庫に変わっている。高校を舞台とした「日常の謎」青春ミステリー作品であり、ミステリーの道具立ては作品毎に異なるが、人の悪意が少し混じってくる事が多いのが特徴となっている。

ネタバレ前提の評論になっていますのでご注意下さい。





























1.原作とアニメ版について


 第1長編「氷菓」は比較的短い。千反田えるの幼少時に叔父との会話である事を聞いた故に恐ろしさまり泣いてしまった。その謎を解いて欲しい。骨子となる謎はそれだけだ。
 この作品は安楽椅子探偵型の作品に分類できる。謎解きの多くは高校の地学準備室と千反田家で起きている。そして謎解きの際に1960年代の高校の光景を想像して語られる事になる。

 本作の特徴は人の悪意の存在であり、主人公たちのカラフルなキャラクターに対して無色さでその悪意の強さを生み出している。そして何もかも語られ説明される訳ではなく。叔父についても高校の後でどう過ごしていたのか大半は明かされる事はない。ただ、証拠と推測からえるの叔父がどのような目に遭ってその事を「歴史」になってしまった過去から未来へと伝えたのかを奉太郎を通じて知っていく事になる。

 奉太郎は千反田えるの願いを受け入れ「まるで見てきたかのように」謎を解き明かす。
 彼らは学校史や世相について書かれた資料を集め、付き合わせ仮説を立て潰していく。そんな中で奉太郎は一人読み筋を見出し立証する。多くの資料は出てこない。ある事実関係を突き止めるという事は1冊の本から1行の記述、1枚の写真を見つけ出す作業である。そういう証拠集めと立証を丁寧に描いている。

 「氷菓」は「見てきたような謎解き」 であり、語りたくない人、語らずに消えた人が出てくる作品である。それは苦い物語であり登場人物達とのカラフルさの強烈なコントラストになっている。

 「氷菓」という作品は奉太郎の「眠り」を覚まし目的を持った「探偵」として再起させる物語である。(える以外で彼を動かせる存在としては千反田えるの他に姉の供恵がいる。彼女はこの世界では神様同然。なんでも見通すジョーカーになっている)
 千反田えるは「氷菓」事件を通じて奉太郎に対して感謝の気持ちを持っている。
でも、それ以上に自身が思った謎を解き明かして説明して欲しい。そう願うお姫様でもある。そしてそのお姫様の好奇心を満たして穏やかに出来るのは「探偵」奉太郎しかいない。奉太郎はその純粋な好奇心に対して心を許している。人を利用し、利用されるものという関係を越えた所にあるから千反田えるは奉太郎の「鍵」たり得ている(本作ではその心を閉ざした理由は明かされないが後の短編集で経緯が示されている)。

アニメ版特有の表現

 アニメ版では千反田えるの好奇心は奉太郎を絡め取る蔦や天使として描かれている。また過去の水測シーンでは再現映像的なものではなく、人形など様々なアイテムを用いて想像だと分かるように見せていた。小説だと読者の想像に任される部分だが、本作の映像化はそれでは持たない。なのでどう表現するのか問われる。
本作のアニメ化が成功したのはこういう表現の選択が的確だった事は大きいと思う。


2.実写版

  対する実写版はアニメ版の存在が重しになっているように見えた。

 登場人物像は奉太郎ら4人についてはアニメ版をコピーしたようなルックとなった。
でも彼らは劇中で16歳である。そして映画でそう見えたのは摩耶花だけだった。
 里志はリアリティラインが特異である。年長に見える時点であの演技は成立しなくなる。俳優の責任ではなくキャスティングに問題がありすぎるし、出演陣も得しない結果を招いていた。

 今時の映画らしく予算節約のためかロケ撮影が多用された。高山ロケも実施しており、特徴的な光景は実写版でも見る事が出来る。この点は良かった。

 実写版では旧制中学校のような服装を叔父にさせる事で表現をしようとしたが、時代考証がおかしな作品に見えてしまった。想像でそう見ているという事を説明はしていない。そのために後で服装が変化するのを見ないと分からない構造となってしまっていた。
実写版でアニメのような「想像の世界」を表現する事は難しい。本作では裏目に出ていて棘になったと指摘せざるを得ない。



 実写版も大半は原作通りの展開を辿っているが大きな改変も3カ所ほどある。

 一つは「氷菓」バックナンバー探しのシーン。壁新聞部エピソードがカットされて、地学教室で見つける事になるが,この時に奉太郎が摩耶花を突き飛ばすという酷いシーンが入っている。当然ながら摩耶花にそんな事をすれば奉太郎に対して蹴り返すぐらいやると思う。

 二つ目は摩耶花がマンガを書いている事について述懐するシーン。高校生らしさ、プロを目指していない子らしい台詞が入っていた。これは最新短編集に入っているエピソードだが、彼女はプロを目指す事を意識している。表現する事に対する覚悟は最新短編集所収の「わたしたちの伝説の一冊」で示されている。これを読んでいたら実写版の摩耶花の台詞はなかったであろう。

 最後は図書室での謎の解明のシーン。事件の真相、千反田えるの叔父に何があったのか明かされる。原作やアニメ版だと上手く立ち回った悪意ある人物の存在が示されている。
これが実写版では何故か「優しい英雄」というあだ名のために、という想像を絶する冗談にすり替えている。
 誰も悪くないという優しい結果を目指したつもりかも知れませんが、そこまで学校側がデタラメな事をやるだろうか.裁判だって持ちやしない。叔父の父母だって許さない。そういう内容だ。

 原作はそういう可能性がない上手い展開(叔父にとってはどうしようもない窮地)になっていた。人の暗部、いやらしさを見事に盛り込んでいた。この改変はこの映画で最悪最大の致命的な失敗だったと思う。