2018年4月19日木曜日

「DARKEST HOUR/ウィンストン・チャーチル」 映画と史実と

ドイツ内の不満を外へ向かわせることで階段を駆け上った独裁者

ヒトラーは絵描きを目指していたとも言われる。そんな第一次世界大戦では一介の下士官、それも最下層の伍長にすぎなかった人物がヴェルサイユ講和条約で課せられた莫大な賠償金で疲弊したドイツで波乱を経ながら一定の支持を得るに到った。
1933年ナチスは野党第一党社会民主党と有力野党であった共産党を排除して議会を制圧。ワイマール憲法を事実上停止させる全権委任法を成立させて権力奪取を実現した。そして第一次世界大戦のドイツを取り戻しただけでなく生存権獲得と称して隣国の領土も狙っていくようになる。
1933年3月23日 ナチス、全権委任法を制定、憲法を事実上停止
1933年秋 独、国際連盟と軍縮委員会から離脱
1934年 ヒンデンブルク大統領死去。ヒトラー、首相から総統の座へ
1935年3月 ヴェルサイユ講和条約の軍備条項破棄、再軍備を宣言
1935年6月 英独海軍協定締結。独海軍増強を容認
1936年3月 講和条約により非武装地帯とされたラインラントへの進駐
1936年9月30日 独伊英仏ミュンヘン会談によりチェコ・ズデーデン地方割譲(チェコは蚊帳の外でチェンバレンらに手ひどいめに会わされた)
1938年3月 オーストリアとの合邦(トラップ一家の脱出の原因)、
1939年3月 チェコスロバキア解体
1939年8月 独ソ不可侵条約締結
1939年9月 ドイツ、ポーランド電撃侵攻。第二次世界大戦勃発


まやかし戦争から電撃戦へ

1939年9月1日。ナチスドイツはポーランドに対し先に攻撃を受けたとして電撃侵攻した。ポーランドと条約を結んでいた英仏は直ちにドイツに対して宣戦を布告。第二次世界大戦が始まった。
そして当初はまやかし戦争と言われるほど欧州大陸では何も起きないまま半年経過した。

1940年5月10日、ドイツ軍はベルギー、オランダ、ルクセンブルクの中立を侵してフランス北部へと侵入を図る機甲戦力主体の作戦を発起。航空優勢を確保したドイツ軍は終始有利に戦いを進行させた。無防備な英仏連合軍はドイツ軍の電撃戦に為す術がないまま後退を余儀なくされた。

労働党の挙国一致内閣参加に伴うチェンバレン首相の辞任に伴い、有力視されていた外相のハリファックス卿が下院議員ではなかった事もあり(下院議員が首相を務める慣例が定着していた)、海軍大臣 First Lord of Admiralty でヒトラーの脅威を予言していたチャーチルに大命降下、5月10日首相となった。

その日から二週間強、英国の人々が後に英国最良の時と栄光を讃える事になる彼らにとって正義の戦いが敗れるという最悪になりかねない時の綱渡りが始まった。


社会階層の亀裂

英国(に限らず欧州各国はそうだが)は第一次世界大戦で大きな痛手を受けた。それは総力戦故に初めて陸軍が徴兵制に踏み切った事(それまでは志願兵制だった。ナポレオン戦争期だと海軍の強制徴募 Press gang もあったがこれはさて置く)、毒ガス使用もあり膠着した塹壕戦で一進一退する中、打開策もないのに突撃を敢行するなど貴族、富裕層も労働者階級も若手士官、下士官兵共々膨大な戦死者、戦傷者を生み出した事や銃後において不足した労働者の穴埋めを女性が引き受けて行った事で社会階層の線引きに揺らぎが生じた事も大きいと思われる。

第二次世界大戦において英国上流階級は例えばハリファックス卿は外相になる前にヒトラーに招待されてキツネ狩り旅行に行きしっかりヒトラーの魅力に惹かれていたらしいとのエピソードがマクカーテン「ウィンストン・チャーチル」(角川文庫)にも出てきており第一次世界大戦での人的被害や社会変化への不満もあってか厭戦、宥和政策傾斜が見られた。
チェンバレンはヒトラーとも直接交渉もしている。英国首相はフットワークが軽く欧州に渡って直接会談するという事はチェンバレンも行なっていた。
「我が闘争」というヒトラーの思想が綴られた本が刊行されていて、ヒトラーと直接会っていたにも関わらずチェンバレンもハリファックス卿もヒトラーを交渉できる相手と見ていた。

一方で労働者階級は戦争支持が多かった。第一次世界大戦がきっかけで社会参加意識が生まれており単に服従する沈黙の世論ではなくなっていた。そしてミュンヘン協定で第一次世界大戦の結果を捨て他国を売るという不正義が為された事で沸騰している。
労働党はこのような労働者階級の人々の声もあってかアトリー党首を筆頭に下院での激しいチェンバレン降ろしの演説を叩き付けている。


毀誉褒貶

首相就任まで失敗と成功いずれもあって毀誉褒貶の落差が大きいチャーチルが保守党下院議員として棚からボタ餅的に有力候補となって首相に指名されたのは奇跡だった。

第一次世界大戦ではチャーチルは当初海軍大臣として作戦にも口を挟んでいた。
オスマン帝国は当初大戦に参戦してなかったにも関わらず英国に発注した軍艦2隻の引き渡しを拒否されるという事件(接収され英国軍艦籍に編入された)と開戦時、地中海にいたドイツ戦艦がオスマン帝国領内の港へ逃げ込み国際法の中立国規定をかわすためオスマン帝国に売却するという事件が起きて最終的に独側で参戦していた。
マルヌ会戦後、塹壕線となって膠着している西部戦線を打開する為にチャーチルはガリポリ侵攻作戦を推進、海軍制服組トップが反対する中で作戦を実施させて多くの戦死者を出して終わってしまった。海軍制服組トップが辞任、チャーチルも海相から離れて陸軍軍人として戦線へ向かう事になった。
映画ではこの大敗についてチャーチルに批判的な人が言及しているが、一つの会戦としては歴史的大敗でありその批判は当然のものだった。

チェンバレン政権で海相となった時にも徒労で終わる事になったノルウェー救援作戦を推進しており軍事作戦にむやみに手を出したがる冒険主義者という面を持った人であるのは間違いない。


講和交渉とダイナモ作戦

チャーチルは首相就任した5月10日のその日からベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵攻して仏領北部国境を突破するというドイツ軍の電撃戦に見舞われた。フランスはこの方面に防衛施設を設けておらず第一次世界大戦もマルヌの戦いに至る侵攻作戦の再来を許し、第一次世界大戦以上の敗走を重ねることになった。

ドイツ軍の装甲部隊は高速機動出来た軽戦車級の戦闘車両と優勢な航空部隊による対地攻撃支援を駆使して準備の足りないBEF(英国欧州遠征軍)や仏軍部隊を敗走させダンケルクとカレー攻囲に追い込んで行った。

チャーチルはフランスの戦いを継続すべく空軍には大陸派遣の飛行隊増勢を求めるなどしていたが、フランス北部の事態はそれを許さない状況へと向かって行った。

チャーチルはフランスでの会談もしばしば実施した。フランス首相もロンドンに来ており顔を合わせての会談が重視されていた。もっともそのような会談を行っても戦局を変えるような決定を出す事はこの段階では不可能だった。

このような努力をしていたがその一方で閣僚とドイツとの講和交渉の是非について深刻な議論を行っていた。
この件はチェンバレン内閣で反ヒトラーでチャーチルの秘蔵っ子のイーデンと交代して外相となったハリファックス卿との対立になった。映画とは違いチャーチルは態度を決めかねていた所があり講和交渉容認と反対で揺れ動いていて講和交渉派のハリファックス卿は怒りを覚えていた。
講和交渉を行った事が漏れた場合、国民が継戦意欲を失い講和しか選択肢がない状況に追い込まれる可能性が高い事は容易に想像ができる。今後の継戦に必要な戦力が英本土に確保できるのかというところで躊躇があったのではないか。

なおイタリアへの仲介依頼が想定されていたが6月10日にイタリアは枢軸国として宣戦布告して来ており講和仲介を依頼したとしてまともに話が進んだかどうかは一変の疑問は残る。

ドイツ軍装甲部隊はダンケルクへの突進をしようとした21日、24時間の停止命令が出て遅れている歩兵部隊の合流を待たされる羽目に陥った。この事はダンケルク脱出作戦最大の僥倖でありドイツ軍の失態と言われている。戦後、ドイツ国防軍に属した人々はヒトラーのせいだという見解を打ち出しているが反論できないヒトラーのせいにして真相を隠したのではとも見られていて決して解き明かされない謎になった。

ダンケルク撤退方針は先に軍が判断をしており、チャーチルはその判断を支持した事からダイナモ作戦は始まり27日には最初の撤退輸送が実施された。

カレーは劇中ではチャーチルが死守命令を出した形にされたが実際は軍でその判断を下してダンケルク所在部隊のための捨て石命令を発信している。
死守命令といってもあくまで可能な限りの継戦を求めるもので、26日に指揮官と生き残った兵士達が降伏して生存者は捕虜となっている(「ダンケルク」空軍のファリアはカレーの戦いを象徴しているのかもしれない)。

ダンケルク撤退は3〜4万人出来れば御の字と言われたが作戦発起2日目の28日にはこの数を越えて海峡を越えて英本土に戻っている。そして順次海岸に撤退した部隊が防波堤を桟橋がわりにしたり、トラックを海岸に並べて小型船艇への桟橋にして6月4日未明までに30万人超の将兵が英本土に戻る事ができた。

6月4日、英海軍とフランス軍将兵の最後の撤退を以ってダイナモ作戦は終結した。
チャーチルはフランスへの配慮からフランス将兵との一緒に撤退を求めたが、軍は当初BEFを優先した。ほどなくフランス軍将兵も撤退に加えられて英本土経由でフランスへ戻っている。

ダンケルク撤退艦船の主力は駆逐艦だった。三分の一近い将兵が駆逐艦で英国に戻ったが最も撃沈等の犠牲が多かった艦種であり、海軍が本土決戦や海上輸送護衛で不可欠なワークホースとしてその損失は懸念されており一度は撤退部隊から外され掛かってもいる。
そして同じく三分の一近く運んだのが民間フェリーボートだった。漁船やオランダ脱出して来た平底船など小型船艇が残りの脱出を担っている。

チャーチルの「上陸地点で、丘で、……戦い抜く」という“Never surrender”演説は6月4日ダンケルク撤退完了を受けて行われた。
またシェイクスピア「ヘンリー五世」モチーフの“Their finest hour”演説は6月18日に為されたものであった。

1940年5月10日 チャーチルに首相大命降下。独軍がベルネクス三国侵攻開始
1940年5月16日 チャーチル訪仏
1940年5月26日 カレーで抵抗していた連合軍残存部隊降伏
1940年5月27日 ダイナモ作戦での撤退開始
1940年6月4日 ダイナモ作戦終結。チャーチル下院 "Never surrender" 演説
1940年6月10日 イタリア、英仏に宣戦布告
1940年6月11日 チャーチル訪仏。仏首脳会談不調に終わる
1940年6月13日 ドイツ軍、パリ占領(政府は南部に移転済)
1940年6月16日 仏レイノー首相辞任。ペタン内閣に。チャーチル訪仏中止
1940年6月18日 チャーチル "Their finest hour" 演説
1940年6月21日 フランス、ドイツに講和申入(実質上の降伏)、翌日受諾さる

ハリファックス卿は外相退任後、駐米大使として英国継戦のため支援を取り付ける役割を担った。


対ヒトラーに特化した劇薬

チャーチルの才能は誰かの部下、閣僚としてのものではなかったのだろうと思う。組む相手が恐ろしく限られる気難しい人。

戦術家としては夢想家
軍略家としては冒険主義者
貴族の気難しさ

彼は言葉で人々を時に死に向かわせた。カレー守備部隊司令官の准将に対して発信された文書を見てチャーチルは怒った。そして捕虜か死しかない人達に対して改めて何故必要なのか告げる命令を発信している。映画ではかなり脚色されている。ただ死守しろと言った訳ではなかった(意義のある事だと鼓舞しているとマクカーテンは書いている)。

作家、画家としての才能を除くと彼にあった最良の資質は戦時において国をまとめて独裁者に対抗する人だったのだろう。ヒトラーに対抗するために生まれてきたような人、一種の劇薬だった。

秘蔵っ子イーデンは二次に渡ったチャーチル政権を支え続けた。そしてチャーチル引退後、ようやく自らも首相になったその時にスエズ動乱に直面してスエズ地峡の英仏権益を失うことになった。彼の運はチャーチル政権も時に使い果たしていたのかも知れない。


追記:映画と史実の違い (ネタバレを含みます)

映画冒頭で出てくる記録フィルムは劇中で軍が戦時内閣にドイツ軍の英本土上陸作戦の準備状況を伝えたものが流用されている。
そして物語は5月9日の労働党アトリー党首のチェンバレンへの非難演説から始まるが、映画が史実を変えて重点を置いたのは5月25日(日)、26日(月)、27日(火)、28日(水)の4日間だった。この間にハリファックス卿との戦争閣議での意見衝突、カレー陥落、ダイナモ作戦の発動、閣僚への演説、下院”Never Surrender”演説など一部史実と日程を変えて描かれている。

チャーチルは地下鉄には乗らなかったし、閣僚演説では地下鉄で会った人達の話はしない(演説全文は残っていないが出席者の日記でおおよその内容は分かると脚本家のノンフィクション本に書かれている)。ジョージ国王が突然やって来たりもしない。
下院演説だって日が違う。何故このような変更がなされたのか。

ジョージ国王については本作はチャーチルとの共通項があるところを見せている。
チャーチルは父親が大変厳しい人で生前認めてもらえなかった。国王も幼少期乳母に育てられたこともあってという話は「英国王のスピーチ」で描かれている所だった。
国王はハリファックス卿から講和交渉の話を聞いて怒りを覚えた事が宮殿のテラスでの会話で示されている。
その上で嫌いなチャーチルと会い、お互いの双肩に国民の将来が掛かっている事を示してお互いの意思の一致を見た。

地下鉄に関しては実は下院を模していると思う。
チャーチルは電車の左手に座る。これは下院での保守党の配置と同じだ。
正面には高齢の煉瓦職人がいた。彼はMr.Speaker(議長)の役割を担っている。そして他の乗客は議員であり国民を象徴させている。
このようにする事で下院演説では決して聞く事の出来ない個々の国民の声を聞いたという体裁を作ることができる。そして彼らの声を聞く事で当時の英国民、特に労働者階級の意思が明確に観客に示される。

このように見せていく事でハリファックス卿ではないが、何故英国にして戦争を続ける道を選ばせたのか、それが国民の意思でもあった事を示して見せている。そのための脚色が為されているのだと思う。