2017年3月16日木曜日

「タンポポ日記」前編

  ある方がブログで「この世界の片隅に」のその後の二次創作を日記形式で書かれていた。
  実は同じような事は考えていてメモ書きは作っていた。日記形式は上手い方法じゃと参考にさせてもらい勢いで載せておく。並列宇宙、ファンの数だけその後はあるとは思うのじゃ。続きもあるんじゃが、それは気が向いたらまた載せるんじゃ。(気が向かなかったらお蔵入りじゃけ)

「タンポポ日記」後編も公開しました。よければお読みいただければ幸いです。



  平成29年新春。4歳ぐらいの小さな子どもが1階の日当たりのいい和室の襖をなんとか開けると潜り込んだ。小さな机があったので好奇心で引き出しを開けて回った。すると一冊の古びたノートが目について気になって中を見ようとした。

  そこに入ってきた母親が大慌てで子どもからノートを取り上げた。−−−

昭和22年春

  軍法会議所録事時代の経験から法律に詳しい周作さんがヨーコちゃんから聞いた話や着ていた服の名札を元に調べて1年がかりであの子の親御さんや家族関係を調べてくれた。もし親族の方が健在ならお話はしないといけない。そう思って仕事の合間に周作さんが、私も草津に行った際に手伝ったけど何も見つからなかった。
  周作さんは「ウチの子として育てるつもりやし、今後の事を考えたら法律的にもそうせんかの。ヨーコさえ良ければそうしようや」と言い出した。義父母と義姉は「あの子の意思は尊重してやり。その上で二人が決めたら私らはそれでええ」と任せて下さった。

  ヨーコちゃんはすっかり懐いてくれていた。決してあの子のご両親の事を忘れたりはしない。ただ今後あの子が巣立っていくにしてもしっかりとした足場が必要だと周作さんは言った。「すずさんとわしならそれが出来るはずじゃけ」

  私も周作さんの考えに賛成した。

昭和24年秋

  すみちゃんとイトお祖母ちゃんにヨーコちゃんに裁縫をうちが教えている事がばれとりました。周作さんが草津に立ち寄ってくれなすった時、ヨーコちゃんの事を話していてついしゃべったらしい。周作さん、ほげな事せんでいいのじゃ。

  この間はそのせいでイトお祖母ちゃんにヨーコちゃんにどういう教え方をしたのか細かく確認された。……でも褒められたんじゃ。ちゃんと今までに教えた事を娘に伝えている。さすがは我が孫じゃといってくれんさった。昔、お祖母ちゃんに怒られたけどちょっとは役だったのを見てもらえてうちもうれしかった。

昭和25年春

  お義父さんが「真新しい船が進水しとるで」と言うのでみんなで畑に見に行った。
そうしたらお義父さんがよくよく目を凝らしつつ「でも、そんな船の建造しとったかのお。あそこは戦標船の修理や改造ばかりやで」と言い出した。でも確かに真新しいペイントの匂いがしそうなきれいな塗装の大型船が港内に浮かんでいた。
お義母さんは「言い出したのはお父さんなのに。……でも久しぶりに明るい彩りのある船をみんなで見られたから良かった。海軍の港じゃ珍しい事じゃけ」と言われた。
  そうしていると「折角だから、みんなで記念写真を撮ろうか」と周作さんが言い出した。径子さんが「そういう事は先に言うんじゃ」と周作さんに怒り、私たち北條家の三人娘(径子さんはどうじゃろ?)は家に飛び込んで去年ヨーコさんが作った晴れ着とお化粧をして畑に戻った。
  お義父さん、お義母さんの二人は「わしらは普段着でええ」とそのまま畑仕事しながら待っていて、周作さんは「臨場感が」とか言いながら、広島で中古を買って凝るようになっていたカメラを三脚に据えるとタイマアでみんなを撮った。
  え、なんで後ろ姿を撮っとるの?周作さん、カッコつけすぎじゃ。普通に撮りんしゃい。(「すず母さん、その後でみんなで並んだ記念写真も撮ったよね。」と少し幼い文字で書かれていた)


昭和26年春

  すみちゃんから紹介したい人がいるからと言われたので周作さんと広島へ出た。

  35歳の元陸軍の技術将校で機械メーカーの工場で生産関係の仕事をしておりんさるそうな。そう言えば「昭和20年にすみちゃんが見舞いに来てくれた時とか昭和19年のお嫁入りの後の里帰りですみちゃんから若い美男子の将校さんの話を聞いとったよね」と口にしたらすみちゃんは顔を真っ赤にして「そ、その人だから」と言われた。若いと言うのはえらく相対的なものやったんやねえ。

  あの日は工場を回る日で郊外にいたそうな。しばらく目が回る忙しさですみちゃんの事を探しに江波まで来てくれたけどすれ違いになっていた。でも路面電車で向かい側の車両にあの人がいたのを見つけあって相生橋にお互いに引き返してようやく互いの消息を知ったと。ラジオドラマのような偶然じゃねと言ったら二人とも顔がリンゴのように真っ赤になって可愛い事。よかったね、すみちゃん。

昭和27年夏

  久夫くんが下関からやってきた。径子さんが何回か会いに行っていたけど、彼が呉に帰って来たのはこれが初めて。妹を母と一緒に迎えたいじゃと黒村の祖父母を説得したらしい。
  ヨーコさんの事も妹のように可愛がってくれた。
  久夫くん、勉強も得意なようで高校進学を決めていて径子さんはホッとしていた。
この間も昼寝しなすっていたお義姉さんは「落書きが」「すずさん、何を久夫に」とうなされていなすった。(そこでうちの名前が出てくるのは少々解せないんじゃけど、流石にそれはお義姉には言えんのじゃ)

  そういえば呉の造船所で新造船作っとるらしいでとお義父さんに言われた。とてもうれしそうじゃった。お義母さんいわく「最初は呉工廠にお勤めやったからねえ」と懐かしそうに言われた。

昭和29年春

  ヨーコさんが中学3年生になった。周作さんは何かとカメラを持ち出してみんなで記念写真を撮りたがるので、春うららな畑で海を背景に写真を撮った。

  ヨーコさんの進学について学校で就職じゃろが、親孝行しなあかんじゃろと先生に言われたらしい。と言うのを聞いた瞬間、うちが我を忘れて鉈を持って家を飛び出したとは径子さんに言われた。
  そして追いかけてきたお義姉さんに「すずさんはこれぐらいにしとき」と竹の物差しを渡されると顔を見合わして頷きあい、そして駆け出して中学校の職員室へと駆け込んだ。
  担任の先生とよくよくよーく話し合って「ヨーコが高校には入れなかったら覚悟しておくんじゃ」という話をして誤解のないようにした。学校の先生も重々反省しなすった。

それにしても持って行った竹の物差し、何故折れたんじゃろか。

(大人びた文字で「それはすずさんが先生の机を激しく叩き割ったからじゃ。鉈でなくてよかったわ。 径子」と追記されていた)

昭和30年春

  ヨーコさんが高校進学した。周作さんは例によってカメラを持ち出し(以下、省略ス)
私は高等小学校までだったけ、ヨーコさんが眩しく見える。
しっかり勉強して新しい時代の女性になりんしゃい。

  久夫くんはなんと大阪大学工学部の機械学科へ進学したそうで大阪へ行く前に呉で途中下車して径子さんに報告に来ていた。周作さんも「帝大とは久夫、よお頑張っとるで」と褒めていた。

昭和33年春

  早いものでヨーコさんが高校卒業。大阪の会社に就職が決まった。広島なら通えるだろうにと言ったのだけど大阪がいいと言い張ったのはなんだかあの子らしくない気がする。

昭和33年夏

  お盆。ヨーコさんが久夫くんと一緒に呉に帰省してきた。大阪でよく会ってるらしい。まさかねえ。

昭和34年春

  久夫くんが大学を卒業した。時計製造メーカーに技術者として採用されて東京勤務になった。下関のお店を継ぐより時計を作りたいのが夢だとか言っていたけど、とはヨーコさんから聞いた。周作さんは妙に温和な表情で話を聞いていた。

後編へ続く